目次
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-1)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-3)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-4)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-5)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-6)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-7)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-8)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-9)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-10)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-11)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-12)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-13)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-14)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-15)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-16)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-17)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-18)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-19)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-20)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-21)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-22)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-23)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-24)
『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-25)

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『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-1)

『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読

 

 

 今回から『資本論』(エンゲルス版)第3巻 第5篇 第23章「利子と企業者利得」に該当するマルクスの草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文(『マルクスの利子生み資本論』第1巻所収)を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 [441]/300上/3)〔利子と企業利得。監督賃金〕

 

  ①〔訂正〕「3)」--草稿では「4)」と書かれている。〉 (267頁)

  【表題だけなので、平易な書き下ろしは省略する。この部分は草稿では、ただ「4)」と番号が打たれているだけである。ただしこの「4)」は「3)」の誤記であろうと大谷氏は推測している。大谷氏がどうしてマルクスが番号を打ち間違ったのかについてもその理由を推測しているが、その紹介は不要であろう。総じてマルクスはこの第5章(篇)部分については読み返しながら手入れをするということをほとんどしていないのだそうである。だからこの誤記も訂正されずにそのままになっているわけである。マルクス自身は、次の項目をやはり「5)」と誤って番号を打っているが、そのあとの「5)信用。架空資本」と自ら表題を書いた段階では、番号そのものは正しいものになっている。だからマルクス自身は誤記を自覚していたということであろう。本来ならこうした誤記はその時点で訂正されるはずだが、マルクス自身は原稿を読み返して手を入れるという作業をほとんどしていないので、こうしたことになっているのだというのである。なお〈〔利子と企業利得。監督賃金〕〉という表題は大谷氏によってつけられたものである。】


【2】

 利子はもともと,利潤すなわち剰余価値(資本によって取得された不払労働)のうちの,機能資本家つまり産業家または商人が,自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり,資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分にほかならないものとして現われるのであり,そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである。もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば,そのような利潤の分割は生じない。利潤はそっくり彼のものである。じっさい,資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり,彼らは利子率,rate of interestを規定する競争には参加しないのであって,すでにこの点にも,利子の諸範疇--これらはなんらかの利子率の規定なしにはありえない--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されて[442]いるのである。

 

 ①〔異文〕「を充用する」← 「で仕事をする」
  ②〔異文〕「かぎり」← 「ときに」
  ③〔異文〕「資本の所有者つまり貸し手」← 「彼が充用する資本の所有者」
  ④〔異文〕「支払ってしまわなければならない」← 「支払わなければならない」
  ⑤〔異文〕「彼はまった[く〕…… のままである〔bleibt ga[nz]〕」--という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「所有者たち」← 「所有者」
  ⑦〔異文〕「この点からも」という書きかけが消されている。〉 (267-268頁)

 〈利子というのはもともと、機能資本家つまり産業家または商人が、自分の資本ではなく借りた資本を充用するかぎり、彼が取得した利潤つまり剰余価値のうち、資本の所有者つまり貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れるのです。そしてもともとそれにほかならないのです。また実際にどこまでもそれにほかならないものなのです。
 もし彼が自分の資本だけしか充用しないのであれば、そのような利潤の分割は生じません。利潤はそっくり彼のものです。そして実際、資本の所有者たちが資本を自分で再生産過程で充用するかぎり、彼らは利子率を規定する競争には参加しないのです。そしてすでにこの点にも、利子の諸範疇--つまりこれらは何らかの利子率の規定なしにはありえないのですが--が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることが示されているのです。〉

 【ここでは前回の「2)」で確認したことが再び確認されている。つまり利子というのは利潤の分割したものだということである。ここでマルクスは利子は利潤のうち資本の貸し手に支払ってしまわなければならない部分として現れると述べている。この「現れる」というのは特徴的である。それはまさに表象として直接捉えられるものなのである。それは何かの分析や考察にもとづいてその本質が解明されるというようなものではなく、資本を借りて生産した機能資本家にとってはそれは彼らが得た利潤からの控除として直接現れているものだということである。マルクスは〈そしてもともとそれにほかならない(また実際にどこまでもそれにほかならない)のである〉と敢えて念を押している。こうした念押しは、やはり利子諸範疇というのは、あくまでも生産過程にとっては外的なものであり、そうしたものにとどまるのだ、と言いたいのであろう。だからまたそうした資本を借りずに、自分の資本で生産する資本家は利潤を分割する必要はなく、利潤をそっくり自分のものにできる。だからまた彼らは利子率を規定する競争に参加することもない。そしてこうしたことが利子の諸範疇が生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであることを示しているのだというのである。ここで「利子の諸範疇」ということばが出てくる。それらは利子率の規定なしにはありえないとも説明されている。要するに貨幣信用にかかわる諸範疇ということであろう。つまり貨幣の貸し借りに関連するものは、すべて生産的資本それ自体の運動には外的なものなのだというのである。この理解、あるいは観点は、マルクスにとっては一貫しており重要である。】


【3】

 利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capitalの使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」a) じっさい,ただ貨幣資本家〔monied capitalist〕と産業資本家とへの資本家の分離だけが,利潤の一部分を利子に転化させるのであり,そもそもこの範疇をつくりだすのである。そして,ただこの二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率をつくりだすのである。/

 

  ①〔異文〕「分離」← 「分裂」
  ②〔異文〕「利潤を」という書きかけが消されている。〉 (268頁)

 〈「利子率は,1年またはそれよりも長いかまたは短いある期間についてある金額のmonied capita1の使用の代償として貸し手が安んじて受け取り借り手が安んじて支払う比率額である,と定義してよいであろう。……資本の所有者が資本を積極的に再生産に使用する場合には,彼は,借り手の数にたいするその割合利子率を決定するという資本家のうちにははいらない。」 実際、ただ貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離だけが、利潤の一部分を利子に転化させ、この範疇を作り出すのです。そして、この二つの種類の資本家のあいだの競争だけが利子率を作り出すのです。〉

 【ここでは上のパラグラフ(【2】)で述べていることを、ほぼそのまま論じているトゥクの一文を紹介して、貨幣資本家と産業資本家とへの資本家の分離が利潤の一部を利子に転化させ、こうした範疇--この範疇はというのは先のパラグラフに出てくる「利子の諸範疇」のことであろう--をつくりだすと指摘されている。下線による強調はトゥクのそれとは異なっているからマルクスのものであろう。ここでは「貨幣資本家」に対して「産業資本家」が対置されている。「所有資本家」に対しては「機能資本家」が対応している。また「産業資本家」は、先のパラグラフでは〈機能資本家つまり産業家または商人〉と述べているのだから、必ずしも産業家だけではなく商人も入るのであろう。要するに「再生産的資本」あるいは「再生産過程内の資本家」などとあとでも言われているものである。】


【4】

 |300下|〔原注〕a) Th.トゥク物価史』,第2巻,ロンドン,1838年,355,356ページ〔藤塚知義訳『トゥック物価史』,第2巻,東洋経済新報社,1979年,330-331ページ〕〔原注a)終わり〕。/

 

  ①〔訂正〕「ロンドン,1838年」--草稿では「(ニューマーチ編,ロンドン,1857年)と書かれている。マルクスは,1858年のロンドン抜粋ノートから取り入れるさいに誤ってこのように書いた。〉 (268頁)

 【このパラグラフは先の引用の典拠を示すだけだから、平易な書き下ろしは不要であろう。この『物価史』からの引用はその一部を省略して行われているが、全体を参考のために紹介しておこう。

 〈利子率とは,一定額の貨幣資本(monied capital)の使用にたいして,1年とかあるいはそれより長期または短期の期間について,貸手が満足して受け取り,借手が満足して支払う比例額であると--その収入の収得のための労苦とか,約定された時期に利子や元本が期限どおり償還されるかどうかについての危険とかは考慮にいれないで--定義できるであろう。貨幣資本の所有者がその貸付にたいしてこの率以上に受け取るものはすべて,危険あるいは労苦にたいする報酬という見地から考察されるべきものである。
 この見地からいえば,利子率資本の純利潤をはかる尺度である。資本の使用によって生ずる利得のうちこれ〈純利潤〉を超えるものはすべて,これとは別個の項目のもとに,危険にたいする・あるいは労苦や熟練にたいする・あるいは位置や環境の利益にたいする・代償に分解される。資本の所有者がこれを実際に再生産に使用するときは,彼は,借手の数にたいするその割合が利子率の決定に参加するところの資本家の部類には入らない。利子率になんらか直接の影響を与えるのは,その所有者が自分の貨幣を自ら積極的に使用することを欲せずあるいは使用することができないという部類の資本だけである。〉(330-331頁)下線はトゥクによる強調】

 


『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-2)

【5】

 /300上/(資本が再生産過程で機能しているかぎり--その資本が産業資本家のものであり,したがって彼はそれをどんな貸し手にであれ返済するという制約が存在しないものと前提しても--,彼が私的個人として自由に処分できるのは,ただ彼が収入として支出することのできる利潤だけである。彼の資本が資本として機能しているかぎり,それは再生産過程に属している。彼はその資本の所有者ではあるが,しかし,この所有は,彼がそれを資本として労働の搾取に使用しているかぎり,別の仕方で彼がそれを処分することを許さないのである。貨幣資本家〔monied capitalist〕の場合もまったく同じことである。彼の資本が貸し出されている--したがってまたmonied Capitalとして働いている--あいだは,それは彼の手に利子を,つまり利潤の一部分をもってくるが,しかし彼は元本を自由に処分することはできない。こういうことは,彼が資本をたとえば1年(またはもっと長い期間)貸し付けて,それにたいしてある期間ごとに利子は受け取るが,資本の返済returnは受けないという場合に,現われる。しかし,返済〔return〕があってもこのことに違いはない。彼は資本を返してもらうが,しかし,自分のためにそれに資本(ここではmonied capital)の働きをさせようとするかぎり,彼は絶えず繰り返しそれを貸し付けなければならない。それが彼の手のなかにあるときには,それは利子を生まず,だからまた資本として働かない。そして,それが利子を生み,資本として働いているかぎり,それは彼の手のなかにはない。ここから,資本を永||301上|久に〔à perpétuité〕貸し付けておくという可能性も生じるのである。それゆえ,トゥクが次のように言っているのは,まったく間違いである。彼は言う。--

 

  ①〔異文〕「資本としては」という書きかけが消されている。〉 (269-270頁)

 

 〈(資本が再生産過程で機能しているかぎり、彼が私的個人として自由に処分できるのは、ただ彼が収入として支出することができる利潤だけです。これは例えその資本が産業資本家のもので、だから彼はそれをどんな貸し手にであれ返済しなければならないという制約がないばあいでもそうなのです。彼の資本が資本として機能しているかぎり、それは再生産過程に属しています。だから彼はその資本の所有者ではあるが、しかし、この所有は、彼がそれを資本として労働の搾取に利用しているかぎり、別の仕方でそれを処分することを許さないものです。貨幣資本家〔moneyed capitalist〕の場合もまったく同じことです。彼の資本が貸し出されているあいだは、それがmoneyed capitalとして働いているわけですが、そのあいだは、それは彼の手に利子を、つまり利潤の一部分をもってくるが、しかし彼は元本を自由に処分することはできません。こういうことは、彼が資本を例えば1年間(またはもっと長い期間)貸し付けて、それに対してある期間ごとに利子は受け取るが、資本の返済は受けないという場合に、現れます。しかし、返済があってもこのことに違いはないのです。彼は資本を返してもらいますが、しかし、自分のためにそれに資本(ここでは当然moneyed capitalとしてのそれですが)の働きをさせようとするかぎり、彼は絶えず繰り返してそれを貸し付けなければなりません。それが彼の手のなかにあるときには、それは利子を生まず、だから資本として働かないのです。そして、それが利子を生み、資本として働いているかぎりは、それは彼の手のなかにないのです。ここから、資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じるのです。それゆえ、トゥクが次のように言っているのは、まったく間違っています。彼は言います。--〉

 

 【このパラグラフの冒頭には「(」がついている。この締めの括弧(「)」)はわれわれのパラグラフ番号では【7】の最後にある。だからそれに付けられた原注である【8】パラグラフも含めて全体が丸カッコに入っているわけである。この点について大谷氏はこの括弧をエンゲルスは編集の段階で削除しているが、それは不適であると次のように述べている。

 

 〈これに対応する「)」は,本書本巻271ページ20行にある。なお,マルクスは草稿で通常,なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分を角括弧でくくっている(本稿では{}で示している)が,エンゲルスはこの角括弧を大部分単純に削除している。そのために,草稿では文脈が明瞭であるところが,エンゲルス版ではわかりにくくなっている場合がかなりある。ここでは角括弧でなくてパーレンであるが,やはり明らかに,前後から区別されるべき部分である。この部分を除いて読めば,この部分の直後の,「そこで生じるのは次のような疑問である」という文で始まるパラグラフのつながりが明瞭になる。〉 (269頁)

 

 つまりここでは資本が機能しているあいだは、資本家はそれを処分することはできないということから、同じことは貨幣資本家についても言いうることだと指摘し、それが返済されるまでは自由に処分できないのは当然であるが、それだけではなく、例え返済されたとしても、それが自分のために資本として働かせるためには、常に貸し付けて、moneyed capitalとして働かせていなければならず、それが働いているかぎりでは、彼はそれを自由に処分はできないと指摘し、そこから資本を永久に貸し付けておくという可能性も生じると指摘している。この資本を永久に貸し付けるというのは、例えば株式を購入する場合は、それは永久に貸し付けるに等しく、配当を利子とし受け取ることになるし、あるいは永久公債のようなものもそうしたものであろう。その場合は利子は年金のように定期的に貨幣利得をもたらすものとして現れるわけである。そうした可能性をここでは論じているわけであるが、確かにこうした問題は本題からすればややずれた問題であろうと思う。だからマルクスは全体を括弧で括ったのであろう。】

 


【6】

 

 ボウズンキト氏(『金属通貨,紙券通貨,信用通貨』)の考察によれば(73ページ)--
 「かりに利子率が1%のような低率に引き下げられるとすれば,借入資本も自己資本とほとんど同等の位置にon a per置かれることになるであろう。」〉 (270頁)

 

 【このパラグラフは、少しややこしいが、前のパラグラフからの続きを考えるなら、恐らくトゥクの言っていることなのだから、最初の部分はその要約であり、鍵括弧の部分はトゥクがボウズンキトの著書から引用している部分の重引であろう。だから平易な書き下しは不要と考えた。ボウズンキトは利子率が低率なら借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれると指摘しているのにたいして、トゥクはそれは間違いだというわけである。それが次のパラグラフで引用されている一文だが、それをマルクスは批判しているわけである。だからマルクスはむしろボウズンキトの主張の方が正しいと考えているのであろう。いずれにせよ最後まで見て、それを判断しよう。】

 


【7】

 

 これにたいしてトゥクは次のような評注をつけている。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,[443]ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a) かりに利子がゼロだとすれば,資本を借りた生産的資本家も,自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だon a par〕ということになるであろう。すなわち,両方とも同じ平均利潤を取り込むであろう。そして,借入資本であろうと所有資本であろうと,資本が資本として働くのは,ただ,それが利潤を生産するかぎりだけのことである。返済〔repayment〕という条件は少しもこのことを変えはしないであろう。利子率がゼロに近づけば近づくほど,つまりたとえば1%にでも下がれば,ますます借入資本は所有資本と同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。monied capitalをmonied capitalとして存在させようとするかぎり,それは絶えず繰り返して貸し出されなければならない。しかも現行の利子率,たとえば1%の率で,しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならない。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり,借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は,ただ,一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ,一方はP(利潤)を全部取り込むが,他方はP-Z(利子)を取り込む,ということだけである。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き,したがってますます二つの資本は同等な位置に〔on a par〕置かれることになる。一方は資本を返済してまたあらためて借り入れ〔leihen〕なければならない。しかし,他方も,彼の資本を機能させようとするかぎり,やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸しなければならないのであって,それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできない。)/

 

  ①〔異文〕「たえず繰り返し」--書き加えられている。〉 (270-272頁)

 

 〈これに対して、トゥクは次のような評注をつけています。--
 「このような利子率で,またはもっと低い利子率でさえも,借り入れた資本が所有資本〔capital possessed〕とほとんど同等の位置に〔on a par〕置かれているものとみなされるべきだというのは,まことに奇妙であって,もしそれがかくも賢明な,そして論題の若干の点ではかくも精通している著者の口から出たものでなかったならば,ほとんどまじめな注意に値いしないであろう。前提によって,返済という条件があるはずだ,という事情を彼は見落したのであろうか,それとも,この事情をたいしたことではないと考えているのであろうか?」a)
 しかし仮に利子がゼロだとすれば、資本を借りた生産的資本家も、自分の資本で事業をする生産的資本家と同等だということになるでしょう。つまり、両方とも同じ平均利潤を取り込むでしょう。そして、借入資本であろうと所有資本であろうと、資本が資本として働くのは、ただ、それが利潤を生産するかぎりだけのことです。返済という条件は少しもこのことを変えはしないでしょう。利子率がゼロに近づけば近づくほど、例えば1%にでも下がれば、ますます借入資本は所有資本と同等な位置に置かれることになります。moneyed capitalをmoneyed capitalとして存在させようとするかぎり、それは絶えず繰り返して貸し出されなければなりません。しかも現行の利子率、例えば1%の率で、しかも絶えず繰り返し同じ産業資本家および商業資本家の階級に貸し出されなければならないのです。これらの資本家が資本家として機能しているかぎり、借入資本で機能する資本家と所有資本で機能する資本家との相違は、ただ、一方は利子を支払わなければならないが他方は支払わなくてもよいということ、一方はP(利潤)を全部取り込むが、他方はP-Z(利子)を取り込む、ということだけです。Zがゼロに近くなればなるほどますますP-ZはPに等しくなって行き、したがって二つの資本は同等な位置に置かれることになります。確かに一方は資本を返済してまたあらためて借り入れなければなりません。しかし、他方も、彼の資本を機能させようとするかぎりは、やはりそれを絶えず繰り返し生産過程に前貸ししなければならないのであって、それをこの過程にかかわりなく勝手に処分することはできないのです。)〉

 

 【ここではボウズンキトが、利子率が1%のような低いものになれば、借入資本も自己資本とほとんど同等の位置に置かれるというのに対して、トゥクは、返済という条件があるではないか、それを彼は見落としたのか、それともそれは大したことはないと考えているのかと批判しているのにたいして、明らかにマルクスはボウズンキトの方が正しく、トゥクの方が間違っていると述べている。これは一見するとどうしてなのか、と思うのだが、マルクスがここで言いたいことは、資本にとっては利潤を生産することがもっとも重要なことであるが、それはだからその資本が貸付資本であるか自己資本であるかということは、外的なことなのだということなのである。確かに借入資本の場合は利子の支払があるので、その点が自己資本の場合と異なるが、しかしその利子率がゼロに近くなればなるほど、利潤の生産ということから見れば、だから両者は同等な位置に置かれるというのである。トゥクは資本にとってそれが借り入れかそうでないかということ、だから貸し付けや返済ということは、資本の生産過程における運動にとっては外的なものだという理解がないとマルクスは批判しているわけである。その意味では、この丸カッコに括られた部分も、【2】パラグラフでマルクスが利子の諸範疇は生産的資本それ自体の運動にとっては外的なものであると述べていたことと関連して述べられているわけであるから、それほど全体の議論から外れたものとはいえないであろう。だからまたマルクスも大谷氏が指摘しているように、〈なんらかの意味で前後の文脈から区別されるべき部分〉というほどではないから、角括弧ではなく、丸カッコで括ったのではないだろうか。】

 

【8】

 

 〈|301下|〔原注〕a)Th,トゥク通貨原理の研究,云々』,ロンドン,1844年(第2版),80ページ〔前出玉野井訳『通貨原理の研究』,139ページ〕。〔原注a)終わり〕|〉 (272頁)

 

 【これはトゥクからの引用の出典を示しているだけだから、とくに解説は不要であろう。】


『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-3)

【9】

 

 〈/301上/そこで生じるのは次のような疑問である。総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか? 言い換えれば,自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家もまた自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて,そういうものとして別個に計算するのは,どうしてなのか? したがってさらに進んで言えば,いっさいの資本が,借りたものであろうとなかろうと,利子生み資本として,総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは,どうしてなのか?〉 (272頁)

 

 〈そこで生じるのは次のような疑問です。純利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割が質的な分割に転回するということは、どうして起こるのでしょうか? 言い換えれば、自分自身の資本を充用するだけで借り入れた資本は充用しない資本家も、借り入れた資本を充用する資本家と同様、自分の総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れて、そういうものとして別個に計算するのは、どうしてなのでしょうか? さらに進んで言えば、いっさいの資本が、借りたものであろうとなかろうと、利子生み資本として、総利潤をもたらす資本としての自分自身から区別されるのは、どうしてなのでしょうか?〉

 

  【ここでは「総利潤〔gross profit〕」という用語が出てくるが、ややわかりにくい。最初に出てくる「総利潤」をエンゲルスは「純利潤〔Nettoprofit〕」に変えているが、これはこの方が適切だろうと思う。利子を除いた部分を純利潤というのはわかるが、それを総利潤というのではわけがわからないからである。次に出てくる「総利潤〔gross Profit〕」の場合は、そのままでいいような気がする(エンゲルスはgross ProfitをBruttoprofit(粗利潤)に変えている)。この部分の訳者注で大谷氏は〈マルクスはこの部分でgross Profitという語をしばしば用いているが,エンゲルスはこれをBruttoprofitと訳している。〉(272頁)と指摘している。総利潤の一部分を利子という特別な範疇に繰り入れるというのであるから、これは総利潤を純利潤と利子に分割することを意味するだろうからである。最後に出てくる「総利潤」については、エンゲルスは「純利潤」としているのだが、大谷氏もそれを適切なものとしているのだが、果たしてどうであろうか。むしろこの場合は「総利潤」でよいのではないかと思うのである。この場合は、前貸資本全体が例え借り入れたものであろうとそうでなかろうと、全体を借り入れたものと見なして、つまり利子生み資本の貸し付けと見なして、それが生み出した総利潤を、純利潤(産業利潤)と利子とに分割するということであるから、総利潤を生み出す資本としての自分自身から区別して、利子を計算するということでいいのではないだろうか。ただまあ、ややこしいことはややこしい。
 ところでこのパラグラフは、〈そこで生じるのは次のような疑問である〉という一文で始まっている。これは果たして大谷氏が指摘するように、われわれのパラグラフ番号でいえば【3】パラグラフを受けたものと考えるのが適切であろうか。むしろ( )に括られた【5】~【7】パラグラフを受けたものと考えてよいのではないだろうか。というのはこれらのパラグラフで問題になっているのは、借入資本も自己資本も資本として機能するかぎりでは、それ以外の処分は不可能であり、常にそれは資本として機能させておく必要があるという点では同じであり、だからもし利子率がゼロに近くなればなるほど、両者はほとんど同等の位置に置かれるのだと述べていたポウズンキトの主張を肯定して、それを批判するトゥクを批判していたのだからである。つまり借入資本と自己資本とは資本として機能する限りでは同じだと述べていたのだから、今回のパラグラフではどうして自己資本で生産する資本家も、それをわざわざ借入資本として計算して産業利潤と利子とに分割するのか、という疑問を提示しているわけである。量的分割がどうして質的分割をもたらすのか、という疑問である。もちろん、それに答えようというのが以下の論述であろう。】

 


【10】

 

 だれでもわかるように,利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない。たとえば,何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成し,その後,法律的に確定された取決めに従って互いに利潤を分配し合う。また,他の産業資本家たちは,自分の事業を個別的に,共同事業者なしで営んでいる。さて,このあとのほうの資本家たちは,彼らの利潤を二つの部類に分けて一部分を個人利潤として計算し他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって,それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である。だから,この場合には,量的な分割が質的な分割に[444]転回することはない。分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれないのである。

 

  ①〔異文〕「利潤の」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「偶然的な」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「彼らの……を分ける」という書きかけが消されている。〉 (272-273頁)

 

  〈誰でもわかることですが、利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するわけではありません。例えば、何人かの生産的資本家が事業の経営にさいして共同事業関係を形成して、その後、法律的に確定された取り決めに従って互いに利潤を分配し合うのに対して、他の産業資本家たちは、自分の事業を個別的に、共同事業者なしで、営んでいる場合、このあとのほうの資本家たちは、彼らの利潤を二つの部類にわけて一部分を個人利潤として計算し、他の部分を存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしないのであって、それは、借りた資本だけで事業をする生産的資本家が、利潤の一部分を、借りたのではない彼の資本に対する利子として計算しないのと同じです。分割が行われるのは、たまたま所有者が複数の法律上の人格からなっている場合であって、そうでない場合には分割は、行われないのです。〉

 

  【このパラグラフはややわかりにくい。まず最初に、マルクスは〈利潤のすべての偶然的な量的な分割がこのようにして質的な分割に転回するのではない〉と書き、〈たとえば〉と書き出している。そして共同事業関係を結んで事業を行った生産的資本家たちは、一定の法的な取り決めにしたがって、利潤を分配するが、つまり利潤の量的分割が行われるが、しかしそれが質的に転回して、例えば共同事業関係をむすばないで個別に事業を行う資本家も、彼の個別の事業の利潤と、存在しない共同事業者の利潤というような利潤の分割をしないことをみれば分かると述べている。つまりこの場合は利潤の量的分割は質的な分割に転回しないと言いたいわけである。もし最初の共同事業関係にもとづく利潤の量的分割が、質的分割に転回するなら、個別で事業を行う資本家も、彼のあげた利潤を存在しない共同事業家の分と分けて考えることになるが、そんな馬鹿なことはしないだろうというわけである。
  ただそれに続けて述べていることがいま一つ分かりにくい。〈それは,借りた資本だけで事業をする生産的資本家が〔利潤の〕一部分を,借りたのではない彼の資本にたいする利子として計算しないのと同様である〉というのであるが、ここで〈それは〉というのは、その直前の〈存在しない共同事業関係のための会社利潤として計算するようなことはしない〉ということを指していると思える。つまり借りた資本だけで事業をする資本家は、当然、その借りた資本に対する利子として彼は利潤の一部を計算するのであって、最初から存在しない借りたのではない資本に対する利子として計算しないように、もともと存在しない共同事業関係者のための利潤として計算しないだろうということではないか。
  そして結論として〈分割が行なわれるのは,たまたま所有者が複数の法律上の人格から成っている場合であって,そうでない場合には分割は行なわれない〉のだというものである。】

 


【11】

 

 この疑問に答えるためには,われわれはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ちどまらなければならない。すなわち,貨幣資本家〔monied capitalist〕と生産的資本家とが,たんに,法律上別な人格としてだけではなく,再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として,または,その手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行なう人格として,現実に相対しているという想定から出発しなければならない。一方は資本を貸すだけであり,他方はそれを生産的に充用するのである。|

 

  〔異文〕「同じ」--書き加えられている。〉 (273頁)

 

  〈この疑問に答えるためには、私たちはもうしばらく利子形成の現実の出発点に立ち止まらなければなりません。つまり貨幣資本家と生産的資本家とが、たんに、法律上の別々の人格としてだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、あるいは、それぞれの手のなかで同じ資本が現実に二重のまったく違った運動を行う人格として、現実に相対しているという想定から出発しなければならないのです。一方は資本を貸すだけであり、他方はそれを生産的に充用するのです。〉

 

  【〈この疑問〉というのは、一つは〈総利潤と利子とへの利潤のこの純粋に量的な分割質的な分割に転回するということは,どうして起こるのか?〉ということであり、それと関連して、どうして〈利潤のすべての偶然的な量的な分割が……質的な分割に転回するのではない〉のかという疑問でもある。
 そしてマルクスは、それがどうしなのかを理解するためには、もう一度、利子が形成される出発点に立ち止まる必要があると指摘し、貨幣資本家と生産的資本家とを、たんに法律上の違いだけではなく、再生産過程でまったく違った役割を演じる人格として、互いに相対している現実から出発する必要があるとしているわけである。一方が資本を貸すだけ、他方はそれを借りて生産的に充用するだけ、という現実である。】

 


『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-4)

【12】

 

 |302上|借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては,総利潤は二つの部分に分かれる。すなわち,彼が貸し手〔Verleiher(lender)〕に支払わなければならない利子と,総利潤・マイナス・利子,すなわち,利潤のうち彼自身の分けまえをなす,総利潤のうちの利子を越える超過分とに分かれる。一般的利潤率が与えられていれば,あとのほうの部分は利子率によって規定されている。利子率が与えられていれば,一般的利潤率によって規定されている。さらにまた,総利潤,つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも,機能資本家のものになる部分は利子によって規定されている。というのは,利子は(特別な法的な取決めを別とすれば)一般的利子率によって確定されていて,生産過程が始まる前から,したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から,先取りされるのであり,前提されているからである。これまで見てきたように,資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり,より詳しく規定すれば利潤である。ところが,借りた資本で事業をする資本家にとっては,資本の生産物は利潤ではなく,利潤・マイナス・利子であり,利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分である。だから,利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に,機能するかぎりでの資本の生産物として現われる(彼にとっては現実にそうである)のであり,そして彼は,ただ機能している資本としての資本だけを代表するのである。彼が資本の人格化であるのは,資本が機能しているかぎりでのことである。資本が機能しているのは,それが産業や商業で生産的に投下され,それを用いてその充用者が,彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行なうかぎりでのことである。だから,彼が総利潤〔gross profit〕,粗利潤〔Rohprofit〕のうちから貸し手〔lender〕に支払ってしまわなければならない利子に対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとる。あるいは,それを,この両方を包括するドイツ語の表現で名づければ,企業利得Unternehmungsgewinn〕という姿態をとるのである。もし粗利潤が平均利潤に等しければ,この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されている。もし粗利潤が[445]平均利潤から偏倚する場合には, それと平均利潤マイナス利子との差額は,ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ,ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ,こうしたあらゆる市況によって規定されているのである。ところで,すでに見たように,利潤の率は,生産過程そのもののなかで,ただ剰余価値によって左右されるだけではなく,そのほかにも多くの事情によって,たとえば,生産手段を買うときの価格,平均的方法よりも生産的な方法,不変資本の節約,等々によって左右される。また,生産価格のことは別として,資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか,総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは,特殊的市況にかかっており,また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっている,等々。しかし,いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化する。そして,この量的な分割そのものは,なにが分配されるか,能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか,また,その資本が機能資本として,すなわち能動的資本家としての彼の機能によって,彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか,によって定まるのだから,ますますもってそれは質的な分割に転化するのである。機能資本家は,想定されている場合では資本非所有者である。逆に。資本の所有は彼に対立して,貸し手〔lender〕によって,貨幣資本家〔monied capitalist〕によって代表されている。だからまた,彼が貨幣資本家〔monied capitalist〕に支払う利子は,粗利潤のうちの,資本所有そのものに帰属する部分として現われるのである。これに対立して,利潤のうち彼のものになる部分は,企業利得として現われるのであって,この利得は,もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行なう諸操作や諸機能から,したがって,彼が企業者として産業や商業で行なう諸機能によって発生するのである。だから,彼にたいして利子は,資本所有の,再生産過程を捨象した資本それ自体Capital an sich〕の,「働かず」機能していないかぎりでの資本の,たんなる果実として,現われる。他方,彼にとって企業利得は,資本それ自体Capital an sich〕の果実,資本所有の果実としてではなく,彼が資本を用いて行なう諸機能の果実として,資本の過程進行Processiren〕の果実として現われるのであり,この過程進行は,彼にとって,貨幣資本家〔monied capitalist〕に対立して,貨幣資本家〔monied capitalist〕の非活動,生産過程への不介入に対立して,彼自身の活動として現われるのである。このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ,すなわち,利子資本それ自体Capital an sich〕の||303上|果実,生産過程を度外視した資本所有の果実であり,企業利得は,過程進行中の〔processirend〕資本の果実であり,したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--[446]この質的な分割は,けっして一方での貨幣資本家〔monied Capitalist〕の,他方での生産的資本家の,たんに主観的な見方ではない。それは客観的な事実にもとづいている。というのは,利子は貨幣資本家〔monied capitalist〕の手に,すなわち資本のたんなる所有者であり,したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手〔lender〕の手に流れ込み,企業利得ただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからである。

 

  ①〔異文〕「・マイナス・」← 「一」〔減算記号〕
  ②〔異文〕「価値量」← 「額」
  ③〔異文〕「確定されていて,」--書き加えられている。
  ④〔異文〕「として」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「この企業利得は」という書きかけが消されている。
  ⑥〔異文〕「もろもろの偶然によって規[定され]〔bestim[mt]〕」という書きかけが消されている。
  ⑦〔異文〕「……率から」という書きかけが消されている。
  ⑧〔異文〕「……は別として」という書きかけが消されている。
  ⑨〔異文〕「個別資本家は……できる」という書きかけが消され,さらに「ある特殊的な……できる」という書きかけが消されている。
  ⑩〔異文〕「この資本を用いて」--書き加えられている。
  ⑪〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。〉  (273-278頁)

 

 このパラグラフはかなり長いので、内容的にわかる限りで、便宜的に番号を打って、幾つかのパラグラフにわけて、平易に書き下ろしてみよう。

 

 〈(1)借りた資本で事業をする生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれます。つまり、彼が貸し手に支払わなければならない利子と、総利潤・マイナス・利子、すなわち、利潤のうち彼自身の分け前をなす、総利潤のうち利子を越える超過分とにです。一般的利潤率が与えられていれば、あとの方の部分は利子率によって規定されています。利子率が与えられていれば、一般利潤率によってそれは規定されています。さらにまた、総利潤、つまり利潤総額の現実の価値量が各個の場合にどれだけ平均利潤から偏倚しようとも、機能資本家のものになる部分は利子によって規定されています。というのは、利子は、特別な法的な取り決めを別とすれば、一般的利子率によってすでに確定されていて、生産過程が始まる前から、したがって生産過程の結果である総利潤が得られる前から、先取りされているのであり、前提されているのだからです。
 (2)これまで見てきましたように、資本の本来の独自な生産物は剰余価値であり、より詳しく規定すれば利潤です。ところが借りた資本で事業をする資本家にとっては、資本の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利子を支払ったあとに彼の手に残る利潤部分です。だから、利潤のうちのこの部分が彼にとって必然的に、機能する限りでの資本の生産物として現れるのです。(彼にとっては現実にそうなのです)。そして彼は、ただ機能している資本としての資本だけを代表します。彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことです。資本が機能しているのは、それが産業や商業で生産的に投下され、それを用いて充用者が、すなわち彼がそれを充用する事業部門の所定の諸操作を行う限りのことです。だから、彼が総利潤、あるいは粗利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、利潤のうちの彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのです。あるいは、それを、この両方を包括するドイツ語の表現でいえば、企業利得という姿態をとるのです。
 (3)もし粗利潤が平均利潤に等しければ、この企業利得の大きさはもっぱら利子率によって規定されています。もし粗利潤が平均利潤から偏倚する場合には、粗利潤と平均利潤マイナス利子との差額は、ある特殊的生産部面での利潤率を一般的利潤率から一時的に偏倚させる市況にせよ、ある個別資本家がある部面であげる利潤をこの特殊的部面の平均利潤から偏倚させる市況にせよ、こうしたあらゆる市況によって規定されています。
 (4)ところで、すでに見ましたように、利潤の率は、生産過程そのもののなかで、ただ剰余価値によって左右されるのではなく、そのほかにも多くの事情によって左右されます。例えば、生産手段を買うときの価格、平均的方法よりも生産的な方法、不変資本の節約、等々。また、生産価格のことは別として、資本家が流通過程のなかで売る価格が生産価格よりも高いか低いか、あるいは総資本の剰余価値のなかで彼が取得する部分が大きいか小さいかは、特殊的市況にかかっており、また各個の場合にはずるさの大小等々にかかっています、等々。
 (5)しかし、いずれにせよ粗利潤の量的な分割はここでは質的な分割に転化します。そして、この量的な分割そのものは、何が分配されるか、能動的資本家が資本を用いてどのように機能するか、また、その資本が機能資本として、すなわち能動的資本家としての彼の機能によって、彼のためにどれだけの粗利潤をあげるか、によって定まるのですから、ますますもってそれは質的な分割に転化するのです。
 (6)機能資本家は、想定されている場合では資本の非所有者です。逆に、資本の所有は彼に対立して、貸し手によって、貨幣資本家によって代表されています。だからまた、彼が貨幣資本家に支払う利子は、粗利潤のうちの、資本所有そのものに帰属する部分として現れるのです。これに対立して、利潤のうち彼のものになる部分は、企業利得として現れるのです。だからこの利得は、もっぱら彼が再生産過程でこの資本を用いて行う諸操作や諸機能から、したがって、彼が企業者として産業や商業で行う諸機能によって発生するのです。だから、彼に対して利子は、資本所有の、再生産過程を捨象した資本それ自体の、「働かず」機能していないかぎりでの資本の、たんなる果実として、現れるのです。他方、彼にとって企業利得は、資本それ自体の果実、資本所有の果実としてではなく、彼が資本を用いて行う諸機能の果実として、資本の過程進行の果実として現れるのです。この過程進行は、彼にとって、貨幣資本家に対立して、貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入に対立して、彼自身の活動として現れるのです。
 (7)このように粗利潤の二つの部分が質的に分かれるということ、すなわち、利子は資本それ自体の果実、生産過程を度外視した果実であり、企業利得は、過程進行中の資本の果実であり、したがってまた資本の充用者が再生産過程で演じる能動的な役割の果実であるということ--この質的な分割は、けっして一方での貨幣資本家の、他方での生産的資本家の単に主観的な見方ではありません。それは客観的な事実にもとづいています。というのは、利子は貨幣資本家の手に、すなわち資本のたんなる所有者であり、したがって過程以前に生産過程の外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込み、企業利得はただ機能するだけの資本家すなわち資本の非所有者の手に流れ込むのだからです。〉

 

  【このパラグラフは長いのであるが、総利潤の量的な分割が質的な分割に転回することを論証している重要な部分である。それをマルクスはどのような展開によってやっているのかをわかるように、幾つかの部分にわけて番号を打って見たわけである。
 まず(1)の部分では、マルクスは借りた資本で事業を行う生産的資本家たちにとっては、総利潤は二つの部分に分かれる、と直接的な事実を確認している。ここでマルクスは、「生産的資本家たちにとって」を問題にしていることがまず確認される必要がある。つまり質的な分割は、あくまで生産的資本家にとって生じてくる事態なのである。彼が手にするのは総利潤のうち利子を越える超過分である。つまり彼にとっては利子は生産過程の始まる前からあらかじめ差し引かれなければならないものとしてあるということである。利子は、生産過程が始まる前から、利潤が得られる前から、利潤から差し引かれるべきものとして、先取りされているのであり、前提なのである。それが確認されている。
 (2)次に、こうしたことから借り入れた資本で生産する資本家にとっては、彼の生産物は利潤ではなく、利潤・マイナス・利子であり、利潤のうちのこの部分は必然的に、彼にとっては、彼が生産的資本家として機能する限りでの資本の生産物として現れるのだと指摘している。そして彼が資本の人格化であるのは、資本が機能している限りでのことであり、資本が機能しているのは、それが産業や商業に生産的に投下されて、その充用者である彼が、それに必要な諸操作を行う限りで、彼は資本家であり、資本の人格化なのである。だから彼が総利潤のうちから貸し手に支払ってしまわなければならない利子に対立して、彼のものになる部分は、必然的に産業利潤または商業利潤という形態をとるのだというわけである。そしてこの両者をあわせた用語として、企業利得という姿態をとると指摘している。
 要するに利子生み資本の貸し手に支払われる利子というのは、利潤の分割されたものであるが、それはその分割された利潤の残りの部分を手にする資本家、生産的資本家たちにとっては、彼らが生産を開始する以前にすでに先取りされているものであり、一つの前提であること、だから彼らが手にするもの(企業利得)は、彼らの生産的活動の果実として現象し、それに対して、利子は不活動の果実、たんなる資本所有の果実として現象するのだということである。利子が利潤を分割して、利子と純利潤(企業利得)とに分かれるのはたんなる量的な分割であるが、それが生産的過程に対する二人の資本家の異なる振る舞いから生じていることから、質的な分割に転回するわけであ。つまり利潤という同じものがただ単に量的に分割されたものにすぎないのに、一方は資本所有の果実として、他方は生産的活動の果実として、それらがまったく異なる源泉から生まれるような仮象が生じているのである。それが質的な分割とマルクスが述べている内容である。
 (3)の部分は企業利得の大きさというのは、利潤率が与えられていれば、利子率によって規定されているのだが、しかし利子率が与えられていれば、結局、その資本の特殊な利潤の状況に左右され、いろいろな特殊的な市況によって規定されているということから、それがますます利子と質的に区別された、利子とは別個の条件に依存するように見えるということを示しているのであろう。
 (4)の部分も企業利得が、それに固有のさまざまな条件に左右されることを指摘している。つまり生産的資本家の努力や狡猾さにかかっていることから、その源泉は利子とはますます質的に区別されたものとして現れるというわけである。
 (5)こうしたことから粗利潤の量的な分割は質的な分割に転化するのだと指摘している。
 (6)次の部分は、われわれの想定では機能資本家は、資本の非所有者であるので、資本の所有は彼に対立して現れ、利子は資本所有そのもの果実として現れること、そしてそれに対して、企業利得は資本それ自体の果実、資本の進行過程の果実として現れると指摘している。そしてそれに対して利子は、彼にとっては貨幣資本家の非活動、生産過程への不介入の果実として現れるのだとしている。
 (7)最後に、マルクスはこうした質的な分割は、確かに生産的資本家の立場から見てきたが、しかしそれは彼らの主観的な見方などではなく、客観的な事実にもとづいたものなのだと述べている。というのは、利子は貨幣資本家の手に、資本のたんなる所有者であり、生産過程以前にその外でたんなる資本所有を代表する貸し手に流れ込むものとして前提されており、企業利得はただ彼が機能する資本家として彼のものになるのだからだというわけである。
 以上がこのパラグラフで総利潤の量的な分割が質的な分割に転回するという事実のマルクスの論証である。】


『資本論』第3部第5篇第23章「利子と企業者利得」の草稿の段落ごとの解読(23-5)

【13】

 

 しかし,ひとたび,借り入れた資本を用いて事業をする〔act〕かぎりでの生産的資本家にとって,また,自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家〔monied capitalist〕にとって,同じ資本にたいして,したがってまたその資本によって生みだされる利潤にたいして別々の権原をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんに量的な分割が,質的な分割に転回し,その結果,一方の部分である利子が,一つの規定における資本の,それ自体として〔an u. für sich〕帰属する果実として現われ,他方の部分は,反対の一規定における資本の独自な果実として,だからまた企業利得として,現われ,一方は資本所有のたんなる果実として現われ,他方は,たんに資本を用いて機能すること,過程進行することProcessiren〕の果実として,過程進行中の資本としての過程進行中の資本の〔d.processirenden Capitals als processirenden〕果実として,または生産的資本家が行なう諸機能の果実として現われれば,このように,粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し,自立化するということが,総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるをえない。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと,あるいは,貨幣資本家〔monied Capitalist〕が所有する資本が彼自身によって充用されようとされまいと,そうである。どの資本の利潤も,したがってまた資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も,二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に,すなわちそれぞれ特殊的な諸法則によって規定される利子企業利得とに,分かれる,または,分解されるのである。自分の資本で事業をする資本家も,借りた資本で事業をする資本家と同じように,自分の総利潤を,所有者としての自分,自分自身への資本の自分自身の貸し手〔lender〕としての自分に帰属する利子と,機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割する。この分割(質的な分割としての)にとっては,資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは,どうでもよいことになる。資本の充用者は,自分の資本で事業をする場合にも,二人の人格に,すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに,分裂し,そして彼の資本そのものが,それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において,資本所有,すなわちそれ自体としてan sich利子をもたらす,生産過程の外にある資本と,過程を進行するもの〔processirend〕として企業利得をもたらす,生産過程のなかにある資本とに分裂するのである。

 

  ①〔異文〕「生産的資本にとって」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「したがって」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「反対の一規定」← 「もう一つの規定」
  ④〔異文〕「違っ[た]〔versch[iednen]〕」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「資本家としての」という書きかけが消されている。〉 (279-280頁)

 

 〈しかし、ひとたび、借り入れた資本を用いて事業をするかぎりでの生産的資本家にとって、また自分の資本を自分では充用しないかぎりでの貨幣資本家にとって、同じ資本に対して、よってまたその資本によって生み出される利潤に対して別々の権限をもつ二人の違った人格のあいだでの総利潤のたんなる量的な分割が、質的な分割に転回し、その結果、一方の部分である利子が、一つの規定における資本の、それ自体として帰属する果実として現れ、他方の部分は、反対の一規定における資本の独自な果実として、だからまた企業利得として現れたわけです。一方は資本所有のたんなる果実として現れ、他方は、たんに資本を用いて機能すること、過程進行することの果実として、過程進行中の資本の果実として、また生産的資本家が行う諸機能の果実として現れたわけです。
  このように、粗利潤の二つの部分がまるで二つの本質的に違った源泉から生じたかのように骨化し、自立化するということが、総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ません。生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであろうとなかろうと、あるいは、貨幣資本家が所有する資本が彼自身によって充用さようとされまいと、そうなってくるのです。どの資本の利潤も、したがってまた諸資本相互間の均等化にもとづく平均利潤も、二つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に、すなわちそれぞれが特殊的な諸法則によって規定される利子と企業利得とに、分かれます。または、分割されるのです。
  自分の資本で事業をする資本家も、借りた資本で事業をする資本家と同じように、自分の総利潤を、所有者としての自分、つまり自分自身への資本の自分自身への貸し手としての自分に帰属する利子と、機能資本家としての自分に帰属する企業利得とに分割します。だからこの質的な分割にとっては、資本家が現実に他の資本家と分け合わなければならないかどうかは、どうでもよいことになります。資本の充用者は、自分の資本で事業をする場合にも、二人の人格に、すなわち資本のたんなる所有者と資本の充用者とに、分裂し、そして彼の資本そのものが、それがもたらす利潤の二つの範疇との関連において、資本所有、すなわちそれ自体として利子をもたらす、生産過程の外にある資本と、過程を進行するものとしての企業利得をもたらす、生産過程のなかにある資本とに分裂するのです。〉

 

 【ここではこの質的な分割が骨化し、自立化することが指摘されている。そしてそれがそうなれば、その事態は総資本家階級にとっても総資本にとっても固定せざるを得ないのだと指摘されている。だからそうなると例え生産的資本家によって充用される資本が借り入れたものであるかどうかということとは関係なしに、すべての資本が生産する利潤は利子と企業利得とに分割されることになる。だからまた自分の資本で事業を行う資本家自身も、二人の人格に分裂する。一つは自分の資本を自分に貸し付ける自分自身と、それを借りて事業を行う自分自身とに分かれるわけである。だから彼は得られた利潤を、一つは貸し付けた自分自身の所有の果実として、利子として受け取り、他方は過程を進行する自分自身、機能する自分自身に所属するものとしての企業利得を取得するのだというわけである。】

 


【14】

 

 [447]だから利子は,それが産業家が他人の資本で事業をする場合にだけ「たまたま」生じるような,生産にとってはどうでもよい,総利潤の分割としては現われることはない,というほどにまで固定化する。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ,彼の利潤利子企業利得とに分かれるのであり,だからこれと同時に,産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく,たんに量的な分割が質的な分割になる。それは,ただ,違った人格に分配される利潤の二つの分けまえであるだけではなく,利潤の二つの特殊的範疇なのであって,この二つの範疇はそれぞれ資本にたいして違った関係にあるのであり,つまり資本の違った規定性に関係しているのである。

 

  ①〔注解〕このパラグラフは,『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1493.11-23)から,変更を加えて,取られている。〉 (280-281頁)

 

  〈だから利子は、それが産業家が他人の資本で事業する場合にだけ「たまたま」生じるような、生産にとってはどうでもよい、総利潤の分割として現れることはないほどにまで固定化します。彼が自分の資本で事業をする場合でさえ、彼の利潤は利子と企業利得とに分かれるのであり、だからこれと同時に、産業家が自分の資本の所有者か非所有者かという偶然的な事情にかかわりなく、たんなる量的な分割が質的な分割になります。それはただ、違った人格に分配される利潤の二つの分け前であるだけではなく、利潤の二つの特殊的範疇なのであって、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるのです。つまり資本の違った規定性に関係しているのです。〉

 

  【ここでも固定化が進む事態が指摘されている。利子と企業利得は利潤の二つの特殊的範疇であり、この二つの範疇はそれぞれ資本に対して違った関係にあるということ、違った規定性に関係しているというわけである。つまり利子は本来は借り入れた貨幣資本への支払を意味するわけであるが、利子範疇が固定すると、それが借り入れられたものかどうかに関係なく、ただ一方の資本の規定性にもとづいてそれが生じてくるように見えるわけである。だから自己資本で事業を行う生産的資本家は、その資本を二つの規定性にもとづいたものとして考え、一つは利子生み資本との規定性によって利子を計算し、他方は生産的資本として企業利得を計算するということになるわけである。これらは同じ資本の二つの規定性であり、しかも一方は(利子生み資本というものは)ただ仮象でしかないものである。しかしそれが一定額の貨幣額であるなら、それはその貨幣額ということそれ自体として利子を生むものと観念されるのであり、だからそれを生産的な事業に投下しても、それが生み出す利潤は、利子と企業利得とに分かれるわけである。
  ところで、この部分はMEGAの注解によれば、61-63草稿から変更を加えて取られているということである。該当する部分をその前後も含めて紹介しておこう。

 

  〈このような、利潤の利子産業利潤とへの最後の分裂では、剰余価値の(したがってまた資本の)本性は、ただ消し去られているだけではなくて、明らかに、まったく別なものとして示されている。
  利子が表わしているのは、剰余価値の一部分である。利潤のうちの、単なる、特殊な名目のもとに取り出された、分けまえである。資本の単なる所有者のものになる、彼によってつかまえられる分けまえである。ところが、この単に量的な分割は、この二つの部分に、転化した姿を与えるところの、質的な分割に一変し、この姿にあっては両部分の元来の本質はもはや脈打ってはいないように見える。この外観は、まず第一に次のことにおいて固定する。すなわち、利子は、ただ産業家が他人の資本で仕事をする場合にかぎって「たまたま」行なわれる、生産には無関係な分割としては現われない、ということにおいてである。産業家が自分の資本で仕事をする場合にも、彼の利潤は利子産業利潤とに分かれるのであり、これによって単なる量的な分割はすでに質的な分割として、すなわち、産業家が彼の資本の所有者であるか非所有者であるかという偶然的な事情にはかかわりなしに資本および資本主義的生産そのものの本性から生ずる質的な分割として、固定されるのである。単に利潤のうちの別々の人々に分配される二つの割当がではなく、利潤の二つの特殊な範疇が、資本にたいして違った関係をなし、したがって資本の違った規定にたいして関係をもつのである。この独立化は、以前に述べた諸理由は別としても、次のような理由によってますます容易に固定する。というのは、利子生み資本は、歴史的形態としては産業資本以前に出現し、また産業資本と並んでその古い形態のままで存続し、そして産業資本によってその発展の過程ではじめてそれ自身の一つの特殊な形態として資本主義的生産のもとに包摂されるからである。
  それだから、単に量的な分割が質的な分裂になるのである。資本そのものが分裂させられるのである。資本が資本主義的生産の前提であるかぎりでは、したがって資本が労働条件の疎外された形態を、一つの独自に社会的な関係を、表わしているかぎりでは、資本は利子において実現される。資本は資本としてのその性格を利子において実現する。他方、資本が過程のなかで機能するかぎりでは、この過程は、その独自に資本主義的な性格からは、その独自に社会的な規定からは、分離されたものとして、--つまり単なる労働過程一般として、現われる。それだから、資本家がこの過程に関与するかぎりでは、彼は資本家としてそれに関与するのではなくて--というのはこのような彼の性格はすでに利子において割り引きされているのだから--、労働過程一般の機能者として、労働者として、それに関与するのであって、彼の労賃は産業利潤において現われるのである。それは労働の特殊な仕方--管理労働--ではあるが、しかし、労働の仕方というものは、およそみな互いに違っているのである。〉 (草稿集⑦468-469頁)】



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